夜は冷える。
冬であれば尤もなことだ。
尤もなことであっても、決して耐えられる事ではない。
ちょっと風変わりな文章を読んでいたら、いつの間にか夜半を過ぎていた。
家に食べるものもないため、何処か店がないかとうろつく。
ところが時間が遅いためか、生憎と何処も開いていなかった。
諦めて家に戻る途中で一軒店の明かりが見えた。
暖簾はもう仕舞われていたが、ダメもとで扉を開けてみた。
「すいません。もう店じまいで―」
麗しい女性の声が聞こえた。
「そこを何とか―」
私は無理にでも頼もうとして、此処が何処の店だか気がついた。
近所でも評判の店だ。
若女将の器量はいいのだが、客に問題があることで。
どうもにも怪しい連中がいつもたむろしている事で知られている。
「あら、先生?」
引き返そうと思ったが、若女将の声で立ち止まる。
よく見れば、いつも店にいる人物がいなかった。
どうやら運がいい事に、皆引き払っているらしい。
「どうしたんですか、先生がこんな時間に」
若女将が笑顔で訊いてきた。
カストリ雑誌や幾つか小説を出しているとはいえ、まだまだそれで身を立てるほど売れているわけではない。
実家の家業を手伝いながら、何とか食いつないでいる程度だ。
その為、この店にはよく食材を届ける事もあるため、若女将とは面識があった。
商店街の面々からは皮肉で『先生』と呼ばれている。
いつもは苦々しく思っていても、こうして妙齢の女性から面と向かって言われると悪い気はしない。
「いえ、一寸夕飯を逃してしまって」
私はつい、言い訳ともいえないような事を口走ってしまった。
若い女性と面と向かって話すと緊張してしまう。
それがきれいな女性の前ではなおさらの事だった。
「そうなんですか?」
若女将は少し困ったように小首を傾げた。
その仕草が、また愛らしい。
「そうだ!少し何か食べていきます?」
そう言うと、女将は奥に引っ込んでしまった。
運がいいのか悪いのか。
どうしていいか解らず、ひとまず覚悟を決めて、席に座る事にした。
机の奥では、紙と筆が置かれている。
人一倍勉強家の彼女の事だ。
帳簿かまた読み書きの勉強でもしているのだろう。
そう思うと、まともに生計も立てていない自分が恥ずかしくなった。
「余りものですいません」
彼女は温かい食事を私にもってきてくれた。
あまりものとはいえ、とても美味しい。
何故この店が繁盛しないか解らなくなってしまう。
女将が若くきれいで、料理も美味しい。
そうか―客が悪い。
いつも店で管を巻いている連中の事を思いやる。
―納得だ。
思い出しただけでも頭が痛い。
彼女の器量でなければ切り盛りするのも難しいだろう。
御蔭で、近所の連中は誰一人、この店に近寄ろうとしない。
自分の両親ですら、私に任せきりの状態だった。
お得意様にも関わらず。
多分この女将がいなければ自分も来ていないのかもしれない。
そんな事を考えていると、彼女が居心地悪そうにしていたため、話を振る事にした。
「いつもいる客はどうしたんだい?」
「もう帰りましたよ―」
私の問いに若女将は一寸迷ったように言葉を切った。
「彼はどうしたんだい?」
何となく気になって、探りを入れてみた。
「ああ―女性客を送っているところですよ」
少しはにかんだ表情を浮かべて、彼女は応えた。
それに内心ガッカリする。
仕方がなく、机に置かれた熱燗を、込み上げる気持ちと一緒にグイッと飲み込んだ。
「じゃあ、さっさと帰らないとね」
『彼が戻る前に』そう心の中で付け加える。
「いいですよ。まだしばらく掛かると思いますから」
彼女は私の心の内を知ってか知らずか、屈託のない表情で引き止めてくれた。
お酒のためか、自分の頬が火照っているのが解った。
「今度はどんな話を書かれているんですか?」
「?」
私は不意を打たれて言葉を失う。
特に今は執筆しているような話はなかったからだ。
彼女の眉間に軽い皺が刻まれる。
きっと会話が途切れてしまって困っているのだろう。
「あれ?何か書いてて遅くなったんじゃ―」
私の代わりに彼女が言葉を継いでくれた。
その心遣いに心で感謝する。
「ああ、違うよ」
私は慌てて否定した。
「ちょっと不思議な手紙を拾ってね。それを読んでいたら―」
「へえ、どんな話なんですか?」
彼女が興味深深と言った感じで聞いてきた。
お酒が入り、酔いが回ってきたのか、いつもより上がらず話が出来た。
「それがねえ―」
私は先ほど読み終わったばかりの話を読み聞かせる事にした。
親愛なるお兄様へ
お元気でしょうか?
手紙を送っても全く返ってこないため、心配しています。
私はとても元気です。
新たに旅立とうと考えています。
今思えば随分とご迷惑をおかけしたように思えます。
生まれた頃の記憶はあまりありませんが、それでもお兄様の事はよく覚えています。
何処から話せばいいのでしょう。
もう暫く会っていないため、話したい事が沢山あります。
だから今日は覚えている事を話そうと思います。
包み隠さず全て。
お兄様だけに。
何故こうなってしまったのかを。
私は御存じのとおり貧しい村で生まれました。
其処には沢山の家族がいましたね。
姉妹も兄弟も。
祖父母に父母、
大伯父母、大叔父母。
伯父母、叔父母。
そしてその子供達。
本当に沢山。
あまりに多すぎて、その中から自分の兄弟姉妹を判別する事は無理な話です。
だから、どれくらいいたのか記憶には残っていません。
そんな事を言えばお兄様からおしかりを受けるかもしれません。
でも、当時はそれが私にとって当たり前のことのように感じていました。
それに今考えても、それは仕方がない事。
小さな家に大勢の家族が犇めきあいながら暮らしていたのは記憶に残っています。
人数が多いというから、それだけ人手をもっている―。
でも、それは必ずしも豊かさを示しているわけではなかったのだと思います。
家族が多い分、生活は厳しかったから。
初めて死を目の当たりにしたのは大御婆さまの時。
かなりの老齢のため、皆に大切にされていたけど流行病で亡くなってしまわれた。
そして何人かの幼い兄弟姉妹もまた。
病であった場合もあるし、事故、餓死等。
日常茶飯事のように人が亡くなっていきました。
だから、死が怖いものだと感じた事は今まで感じた事はありません。
村の大半の暮らしは貧しいものだったし。
その為、年老いたものは栄養不十分のために衰弱。
また生まれた子供が幾日と経たぬうちに餓死する事さえ珍しくありませんでした。
それだけ私達の周りでは死であふれていた。
知り合いが死ぬ時は悲しさを感じないわけでありませんでした。
それでも、当然のことといったある種の割り切りが強かったと思います。
そうかと言えば村でも一握りの者だけはゆとりある暮らしを送っていたと聞きます。
古くからの地主と、異国との争いによって富を得た成金たち。
社会的な弱者から順番に死が訪れるのは当然なのかもしれません。
強者が弱者を搾取することもまた。
それでも一時期まではまだ幸せだったと思います。
私が生まれてから間もなくの事。
新大陸から波及した不況が世界を覆っていったそうです。
私の故郷たる片田舎の村にも例外なく波及し、生活は困窮を極めました。
お兄様は兵隊さんになっていたから知らないかもしれませんが。
日に日に食料は不足し、あらゆる物を食べなければならなくなっていきました。
子供たちが可愛がっていた鶏も、直ぐに姿を見なくなりました。
姿けど、を消したのは鶏だけではなかった。
鼠から蜥蜴、酷いときには虫を食べてでも生き延びなければならなくなりました。
当然、多くの子供たちは紡績工場や丁稚奉公、人買いに売られたとききます。
一人でも生き延びるために、口減らしすら平然と行われているのを見てきました。
それ程生活は厳しく、皆生き延びることだけで精いっぱい。
今考えれば、酷い状況。
でも其処に道徳や善悪や正義感の入る余地は何処にもないと思います。
ただ自分が生きるために何をしなければならないかという事だけ。
初めは多くいたはずの家族も少しずついなくなっていきました。
多分、故郷にお戻りになる度にお気づきになっていた事と思います。
そして沢山いた兄弟姉妹もほとんどが別れ別れになってしまいました。
生死を問わず。
だから、本当にどれだけの家族があの当時一緒にいたのか解らずじまいです。
顔も、名前も。
勿論、私が生まれる以前に既に売られた子や亡くなった子も沢山いたと思います。
弟、妹については、殆ど顔すら覚える前にいなくなっていました。
唯一、私が完全に記憶している家族と言えばお兄様、お一人です。
お兄様が士官学校を卒業して帰郷した際の凛々しいお姿を今も良く覚えています。
生まれつき大変優秀なお兄様は私の自慢でした。
村始まって以来の秀才であり、また、人並み以上の運動能力を持っていたお兄様が。
幼年学校、士官学校を優秀な成績で卒業していたと聞き及んでいます。
私はそれ程、頭がいいわけでも体力があったわけでもないため、とても羨ましかった。
そして、同時に憬れでもありました。
連隊の駐屯地から戻ってくる際には必ず珍しいお菓子を買ってきてくれた事を覚えてます。
他の兄弟姉妹と比べても兄様は私を特に可愛がってくれたと思います。
何故可愛がってくれたのかはよく解らないけれども。
また本来いつ売られてもおかしくない私を兄様はよくかばってくれた事も知っています。
お父様もお母様も家に仕送りする兄様の発言を無視できないと言ってました。
不況により家が傾いた際、多くの妹達は売られることとなりました。
私も例外ではなかったと思います。
そんな時、兄様が知り合いの老夫婦に里子になるよう手配してくれたのでしょう。
紡績工場等に出されていれば今の私はなかったはず。
後から聞いた話だけど、兄様は渋る両親にお金を払い私をもらてくれたそうですね。
だから兄様には心から感謝しても感謝したりない程です。
老夫婦のもとに行くときに兄様の手に引かれ歩いた道は今も鮮明に瞼に焼き付いています。
空は何処までも青くきれいだった。
その時に初めて汽車に乗せてもらってはしゃいだ事がまるで昨日の事のようです。
汽車は人が走っても追いつけないような早さで谷や山が走り去って行きました。
窓からすごい速さで景色が遠ざかって行く。
住み慣れた山と森の景色から徐々に人の建てた建物の数が増えていく。
気がつけば汽車に揺られて、寝てしまっていました。
そうして山間の村から都会へやってきました。
私を引き取ってくれた里親はとても優しくて、いい人でした。
裕福だったと思います。
それまで着ることができなかった高価な着物を着せてもらえた。
それ以降食べるものにも困った記憶もありません。
それまで行く事さえ出来なかった学校にも行かせてもらえた。
それは私の中で残っている数少ない幸福な時間です。
温かで、幸せな時間。
老夫婦は子供がいなかったためか、私を実の子のように可愛がってくれました。
そこでは本当に何不自由なく暮らすことができたと思います。
数年間、其処で暮らしました。
しかし、そんな幸福も長くは続かない。
老夫婦とも高齢もあって、病気により早々と亡くなってしまいました。
私はその時初めて泣きました。
人の死を前にして。
それまでの私にとって、人の死など当然の事。
けど、その時、何故人が死ぬ事でなくのか解りました。
私は途方に暮れてしまいました。
老夫婦が亡くなる前年にお兄様の不幸を風の便りに聞いたから。
お兄様は私を老夫婦の元に預けた後、大陸へ転属。
その後、外地の争いに巻き込まれ後、行方がわからなくなったと聞いています。
その時も悲しみで胸がいっぱいになりました。
だけど、その時にはお義父様やお義母様が支えてくれたから。
もう故郷の両親にしても行方が解らなくなっていたし。
私は完全に独りとなっちゃいました。
短い期間、里親の親戚の元に預けらました。
けれども、それは遺産が目当てだったと思います。
里親から引き受けた遺産を私のもとから取り上げ、ろくに食事もさせてもらえなかった。
家の中では女中の如く働かされた。
もう少し、その場に留まっていたら、あげく私は売られていたかもしれません。
そんなあるとき、里親の遠縁にあたる人物が私の元を訪ねてきました。
その人物は里親から自分の事を頼まれており、自分の元に引き取ると言ってくれた。
しかし、私はその方もきっと自分の遺産が目当てだ。
そう思って、あまり信じていませんでした。
でも、その方が私を訪れて以来、その家での私の立場が変わってきました。
まず遺産の一部が私の手元に戻ってきた。
そして、再び、その方が私の元に来ると、今度は彼の屋敷に連れて行かれました。
身寄りのない私を本当に引き取ってくれたの。
それまでとは違い、そこでは本当の家族の一人として扱ってもらえました。
でも本当は引き取る予定はなかったんだと思います。
里親に死ぬ間際に頼まれたため、やむを得ず引き取ってくれたのかもしれません。
引き取ってくれたのは、爵位をもった高級官僚の一人。
詳しくは知りませんが、官憲を指揮する立場におり、政府でも相応の地位にいるようです。
そんな地位にいたにも関わらず、男は私に屋敷の一室を与えてくれました。
そして家族とともに暮らすことを許してくれました。
再び学校にも通わせて貰えもしました。
けど、私にとっての家族はお兄様、そしてお義父さま、お義母さまだけだったから。
お屋敷の御家族とは無意識のうちに間をとってしまいました。
それでも、私を引き取ってくれた人に恩返しをしようと思ったの。
家事を率先して手伝い、少しでも役に立てるよう頑張りました。
その後、に古くから仕えていた小間使いの一人が亡くなった。
死因は伏せられ、密かに弔われました。
そして、旦那様に頼まれてさる婦人の家に赴く事になりました。
問題はその向かった先でした。
旦那様はその時既に奥方様がいらしたにも関わらず、別の女性と恋に落ちたようです。
また、その間には一人の女の子が生まれていました。
老婆が亡くなると、其処の手伝いがいなくなってしまった。
屋敷の中には適当なものがいなかったため、私がそちらの御手伝いに行く事になりました。
婦人はミルクホールで働いています。
旦那様は官憲として重責を任されていた。
それゆえ多忙を極めていたためか、私の知る限り、婦人の家に来る事は殆どありませんでした。
両親がその様な状況にあったため病気がちな子供の相手をするのが私の役目。
そんなある日、お嬢様が高熱を出しました。
その事を旦那さまへ伝えました。
すると、幾日か旦那様が家に寄られた。
なけなしの時間を削ってお嬢様に会いに来ていたようです。
しかし、お嬢様が回復すると旦那様はまたパタリといらっしゃらなくなった。
それから後、お嬢様に変化が起こりました。
徐々にやせ細り、生傷が増えました。
また、暫く外出したきり、戻らない事も多くなりました。
ある日、気になって聞いてみた。
けれども、お嬢様は「お母様はやさしいよ」と、そう笑うだけ。
それがどんな意味なのか私にはよく判ってました。
毎夜、嫌な声が聞こえてくる。
一度、婦人の部屋に確かめに行きました。
どうやら夜になるとネコが寝室に入り込みお嬢様に悪さをするとのことです。
それを婦人が手当てをしているという事でした。
確かにお優しい方。
だけど、家の中は塞がれており、ネコが入り込む余地などはありませんでした。
旦那様に報告しようかどうしようか迷いました。
知れれば、私がどんな咎めを受けるか解らないため、その事は伏せる事にしました。
夕刻、買い物から帰ってきた際、川辺でお嬢様の姿を見ました。
見知らぬ青年と御話をされていた。
人攫いかもしれない。
そう思って、慌ててお嬢様の元に駆け寄ろうとした。
しかし、その前に話が終わったのか、お嬢様の方が私に駆け寄ってきました。
青年はただ手を振っていた。
その姿は、嘗て死んだお兄様によく似ていました。
とても優しそうな横顔が特に。
その顔が夕日に照らされ橙色に染まっていました。
私はお辞儀した。
顔を上げた時にはその姿はもうありませんでした。
あの人は誰?
そうお嬢様に聞いてみました。
「お兄ちゃん」
御嬢様は笑いながら私に告げました。
まさにお兄様と同じ。
「子子子子子子子子子子子子」
加えてお嬢様が訳のわからない事を言ってきました。
私は首を傾げた。
「お兄ちゃんに教えてもらったの」
御嬢様はそう教えてくれました。
しかし、意味が解らないため、もう一度確認してみる。
「なぞなぞ―それしか知らないの」
御嬢様は終始笑顔だった。
どうやら、先ほどの青年から教わった謎解きのようです。
とはいえ子が十二個?
一体何を示しているか解らない。
もしかして時間を示しているのだろうか?
『1111年11月11日11時11分』
サッパリ意味が解らない。
お兄様ならお解りになるのかも知れませんが。
先ほどの姿からすればきっと学生に違いないありませんでした。
だとすると頭の良さなど私の比ではない。
きっと、非常に学のある話しに違いありません。
でも、そんな事をあんなあどけない子供に教えてどうするのだろうか?
頭の良い方の考える事等、よく判りません。
お嬢様の手を繋ぎながらそんな事を考えていました。
それから数日した後、お嬢様が泣きながら帰ってきました。
泣いていたためよく判らないけど、河原に行ったが誰も来てくれなかったそうです。
多分、この前見かけた『お兄ちゃん』がいなかったのだろう。
私で何かできるわけでもないのであやしておくだけにしました。
その夜、また一段と酷い怪我をお嬢様がしました。
ネコに手ひどく引っ掻かれた、という程度では済まされないもの。
最早私はその辺りから耐えられなくなっていた。
次の日から、お嬢様の様子がすっかり変わってしまいました。
時として全く別人のようになってしまったのだ。
普段はいつもと変わらず、私に話しかけてくれる。
けれども、時として「うるさい!」等と冷たい態度をとるように。
私はどうしていいか解らず、お嬢様に話しかけるのを控えるようにしました。
それから一段と様子がおかしくなっていきました。
独りでまるで誰かと話しあっているかの様な素振りをし始めた。
一方、婦人の方はひたすら旦那様が何時来るのかと聞くばかり。
子供を心配している様子が全くない。
それどころか、お嬢様の具合が悪くなればなるほど喜ぶ始末。
そして、その事を直ぐに旦那様に伝えるようにと怒鳴り散らす。
初めの内はある程度、お嬢様の状態を旦那様にお伝えしていました。
その度に旦那様も終始心配をして、様子を確認されていた。
しかし、父親が来ると、症状も比較的に落ち着く。
そのため、私の報告を旦那様は疑うようになっていきました。
その上、あまりに間隔が短いためか、旦那様も段々と相手にしなくなってしまった。
そして、旦那様からは怒られはしないものの、私の話を聞いてくれなくなりました。
まるで以前にお兄様から聞いた異国のお伽噺のように。
御嬢様からは冷たい態度を取られ。
奥様からは旦那さまが来ないと責められ。
旦那様からはまるで嘘つきのように扱われた。
もうどうしていいか解らなくなってしまいました。
私はもう完全に途方に暮れました。
もう、旦那さまに報告は出来ない。
奥様には旦那様が来られないと嘘をつき。
御嬢様には機嫌のよいとき以外は話しかけないようにした。
毎日をただやり過ごすことだけで精いっぱいな状態。
その日々に久しぶりに旦那様の屋敷に戻る事がありました。
ところが、屋敷の皆からもまるで裏切り者であるかのような扱いでした。
屋敷の多くが婦人ではなく正妻の奥様の味方をしていたために。
婦人のところで働く私は彼らにしてみれば裏切り者以外の何者でもなかったのです。
明らかな陰口が私の耳に入るように皆囁き合っていたました。
まるで真綿で締められるかのように私の心は追い詰められていきました。
助けてくれる人等、誰もいない。
親は既にいない。
私をお兄様に売ったきり、連絡一つない。
唯一私を大切にしてくれたお兄様も大陸の争いに巻き込まれ、音信が途絶えて久しい。
私を引き取ってくれた老夫婦も当の昔に他界した。
誰のために何のために私は生きているのでしょう。
そんな事が延々と頭の中を回り続ける。
死は私の身近にあったにも関わらず、何処までも遠かった。
考えとは裏腹に身体だけは勝手に動いていた。
そんな最中、ついに取り返しのつかない事が起きてしまいました。
それは婦人がまだミルクホールから帰られていない時。
お嬢様が何かマズイものを飲んでしまったのです。
私はどうすればいいか解らず私はオロオロし続けました。
勿論近所の方々に助けを求めました。
ところが、以前より奥様が騒ぎ過ぎたためか、全く相手にしてもらえない。
それどころか白い目で見られる始末。
医者にしても反応は同じでした。
その間も御嬢様は胃の中のいろんなものを吐きながらのたうち回っていました。
その中には赤いものも混ざるようになって―。
私はあまりに恐ろしくなって、自室に閉じこもってしまいました。
その間も延々と身の毛もよだつ叫びが。
今も私の心に深く沈みこんで消える事はありません。
扉を叩くような音もしたはずだけど、聞こえないふりをしました。
これだけの声が聞こえているのに誰一人として助けにも来てくれない。
永遠とも思える時間が過ぎた後、漸く静かになった。
それでも長い間、部屋の外に出る事を躊躇いました。
いつ襖が開いて、お嬢様の崩れた顔が現れるかと、気が気ではなかった。
それでも叫びが止んで静かになると、自分が取り返しのつかない事をしたという気持ちが強くなってきました。
恐る恐る襖をあけ、お嬢様の元に駆けつける。
もう、お嬢様は叫びを上げる事も、苦しむ様子もなかった。
どうやら疲れ果てて、眠ってしまったようです。
彼女が出した汚物を拭いてきれいにしてやる。
新しい服を着せ、顔を整えると、不思議と安らかな寝顔をしていた。
床に置いておくのが忍びなかったため、着替えさせて布団に寝かしてあげました。
声をかけたけれども、一向に返事はありませんでした。
それだけ深く寝ているようでした。
そんな時、婦人が戻られました。
婦人は戻られると、いつものようにお嬢様のご様子を聞きました。
私はお嬢様が苦しまれていた事をお話ししました。
すると、婦人の喜びようと言ったらありませんでした。
直ぐに旦那様に伝えるようにと言うと、旦那様が来るとはしゃいでいた。
もう、何もかもが嫌になってしまいました。
直ぐにでも家を出よう。
ついに私は覚悟を決めました。
『連れてって』お嬢様がそう私に告げた。
私は言う通りにする事にしました。
御嬢様を背負って外へ向かう。
途中廊下で婦人にお会いしました。
それでも、旦那様に会えるのがそんなに嬉しいのか全く私達の事を気にしていませんでした。
そのまま、お嬢様と一緒に呪われた家を出ました。
冬の夜、風は冷たかった。
お嬢様の身体はまるで羽のように軽く、氷のように冷えきっていました。
お嬢様が嘗て遊んでいた川辺に差し掛かかりました。
『降ろして』
お嬢様の声がしました。
その声は今まで聞いたどんな音より澄み渡っているように聞こえました。
その為、橋の袂まで連れていき、降ろしました。
きっと、よく遊んだ場所に別れを告げたかったんだと思います。
「ごめんね」
私は謝った。
心の底から。
誰に謝ったのか解らない。
旦那様だろうか?
奥様だろうか?
御嬢様だろうか?
それとも―お兄様に。
それでも謝りたかった。
私はお嬢様に抱きつきながら、訳もなく泣き続けました。
風が吹いた。
涼やかな風が。
叢雲をかき消し、その姿を現した。
私は面を上げた。
月の代わりに其処にお嬢様の姿は何処にもありませんでした。
先ほどまでしっかりと私が抱いていたにもかかわらず。
考えてみれば、もう帰るべき場所もない。
もう、婦人の元にも旦那様の元に帰ることもできない。
御嬢様も喪われてしまった。
本当に独りになってしまった。
行く場所も帰る場所もない。
其処で一つ懐かしい場所を思い出しました。
嘗て里親が育ててくれた場所。
私の唯一の家。
私もお義父様、お母様の元にいけるのかな?
お兄様、もし生きていらしたらもう一度お会いしたかった。
もし届くのであれば、この手紙がお兄様に届きますように―
親愛なるお兄様へ
私は静かに文章を読み終わった。
「夕刻、銀座の辺りで女性が車に轢かれたらしい」
私は得意げに自分の考えを述べる。
「年齢とかを考えても、その被害者がもしかしたらこの女中―」
私は途中で言葉を止めた。
目の前の若女将はとても悲しそうな顔をしているのが見えた。
涙さえ、浮かべているのかもしれない。
酔いが一瞬で覚めてしまった。
女性の前で話すような内容では無かったと後悔する。
人の不幸で喜ぶなど、不謹慎極まりない話だ。
カストリの小説を書いている自分の情けなさが思い出される。
不幸な話を面白おかしく書いている自分。
しかも、其処で勝手な詮索や注釈を咥える等と。
先生等と呼ばれて天狗になってもその程度だ。
皆が揶揄して読んでいるのもうなずける。
食べかけの箸を机の上に置いた。
食欲もいつの間にか失せていた。
懐から、なけなしの御札を取り出す。
「御馳走様」
そう告げて、店を出る事にした。
「あっ」
声に振り向くと若女将が何か言葉を探しているようだった。
「夕飯ありがとう」
彼女の口をそうして止める事にした。
そして、なるべく笑顔になるように努めた。
「申し訳ない」
口の中でそれだけ呟く。
扉を開くと、寒さが身にしみた。
酔いがさめた身体にはとても堪える。
心も酷く寒々しい思いがした。
遠くで、明かりの下に影が見える。
きっと若女将の待ち人が帰ってきたに違いない。
丁度よい時期だったのかもしれない。
邪魔者はさっさと退散する事にしよう。
見上げた先に星も月もない、無明の闇。
この手紙の主がどうなったか解らない。
それでも、今では僅かながらでも幸せになってほしいと思えた。
この空のように明かりが見えなくとも。
懐の手紙が鉛のようにズシリと重く感じられた。